マニアではないが コロナ禍で自宅にて、映画鑑賞に加えて、音楽を聴く機会が増えた.再生 音楽をオーディオ・システムで聴く時、音の「ダイナミクス(dynamics)」や「ダイナミック・レンジ(dynamic range) 」という表現を耳にする.
音楽の作曲や演奏における「ダイナミクス」と云うのは、象徴的なものとして「pp(ピアニッシモ、とても弱く)」「mf(メゾフォルテ、少し強く)」、「f(フォルテ、強く)」のような強弱記号で表され、音楽または音色表現の強弱を示す場合がある.
生演奏でない再生音楽をオーディオ・システムで聴く場合、スピーカーのダイナミクスが優れていると、より生の音に近く聴こえるとも云われる.音の「ダイナミクス」とは動的なリニアリティ(linearity 直線性)と置き換えてもいいかもしれない.スピーカーからどれだけ大きな音を出せるかということではなく、瞬間的に出さなければならない音を、どこまで瞬時に発することが出来るかということで、要は瞬時のトランジェントの(transient、一時的な)スピード感である.
分かりやすい例を挙げれば、隣の部屋で演奏される実際のピアノの音とオーディオ・システムから発せられるピアノの音とでは、どちらが生の音かは見えなくても聴けばすぐに判断できる.音色の違いも識別する要因でだが、それは周波数特性と音量がまったく同じだとしても、音のエネルギーが発せられる(burst)ときのスピードが異なるからだ.生のピアノの方が圧倒的に早く迫力がある.それが両者の音の存在感を決定的に違うものとしている理由だ.楽器がヴァイオリンの場合も結果は同じで、電気信号を音に変換するオーディオ・システムでは、このダイナミクスをいかに上げて生の音に近づけるかは難しい物理的課題或いは限界だ.
オーディオにおける「ダイナミック・レンジ」は、録音再生できる最小と最大の音の比率、幅を表す尺度.大雑把には「ダイナミック・レンジ(音量の大小)」は「ダイナミクス(音楽表現の強弱)を構成する一つの要素である」と言い換えることもできる.ダイナミック・レンジの小さいオーディオ・システムでは大編成のオーケストラ演奏曲を生に近い迫力で聴くのは不可能だ.
ダイナミック・レンジを表す単位、最小音量と最大音量の関係を示す比率(倍率)をデシベル(dB)という.デシベルは対数(通常logと表記)なので、単位数が大きくなるにつれても比率は比例しない.
デシベルと音量の関係と音の大きさの目安:
120dB 飛行機のエンジンの近く
110dB 建設現場のリベット打ち
100dB 電車が通るガード下
90dB 大声による独唱
80dB 地下鉄の車内(窓を開けた)
70dB 騒々しい事務所
60dB 普通の会話
50dB 都会の住宅地
30dB 静かな住宅地
電車が通るガード下(100dB)は普通の会話の音(60dB)の100倍、飛行機のエンジン音は1,000倍の大きさだ。6dBの差で2倍、10dBで3倍、20dBで10倍の大きさとなる.窓が開いた地下鉄車内は普通の会話の10倍の音の大きさだ.
市販のオーディオ・スピーカーのダイナミック・レンジは80dB〜100dBくらい. ベートーベンの交響曲第5番「運命」、ワグナーの「ワルキューレの騎行」、ムソルグスキーの「展覧会の絵」などのダイナミックレンジの大きな曲は 90dB以上あるオーディオ・システムで余裕を持って聴きたいものだ.
オーディオは生演奏には絶対かなわないか?
「オーディオは生演奏には絶対かなわない」というような表現をよく耳にする.オーディオと生演奏は、両方の魅力、そしてお互いの一長一短があるはずだと思っている.オーディオをコンサートの代替でなく楽しんでいる粋人を何人も知っている. 一級のオーディオ製品は、技術(technology )と芸術(art)が最高点で融合する時に産まれるといわれる.技術は音響学的・電気的・機械的面を総合する製品作りをさす.オーディオにおける芸術性は、個性的で魅力的な音創り面と工業製品としてデザイン面に表現される.先に述べた「ダイナミクス」を向上させる目的は製品開発の最重要課題の一つだ.
自分の好みに合ったオーディオは生演奏とは全く異なる音楽の悦びを与えてくれる、それ自体が独立した存在ともなりうる.自分の愛機 (眺めるのも愉しい) からいかに素晴らしいサウンドを作り上げ、再生で聴く音楽というのは、コンサートで味わう音楽とは別世界なのだ.比較する対象でない別物だとも云われる.オーディオで再生音楽を楽しむ達人を「レコード演奏家」と言ったりもするほどだ.
生演奏の1番の魅力というのは、大音量、ダイナミック・レンジの広さ(再生空間の広さ)、音場に包まれる空気感といったものであろう.また、そのとき、その場所にいて、その感動を得るというリアリズムが堪らなく魅力的なのだと思う.こればかりは一般家庭のリスニング・ルームでは敵わない永遠の壁でもある.一方で生演奏は、座席による音響のムラがあるし、また演奏者の出来不出来によるムラもある.ダイナミックな迫力はあるのだけれど、結構雑というか不出来の時の生演奏ほど落胆するものはない.これであれば、家でオーディオで聴いているほうがずっとイイ、ということになる.
その点オーディオは、当たり外れがなく常にベストの演奏、音響を時を選ばずして聴ける.生演奏は、生演奏.オーディオはオーディオというように楽しみ方を割り切るのが賢明だとも思う.
そういう意味でも、生演奏とオーディオは持ちつ持たれつだし、楽しみ方はそれぞれ違うところにある、と思っているので、一概に、「オーディオは生演奏には絶対敵わない」などと言うつもりはない.
1980年代以降の「重厚長大から軽薄短小」と「アナログからデジタル」の波に呑み込まれて久しいオーディオ業界は、往時1970〜80年代の熱気はもはや無い.ヘッドフォンやイヤフォンで音楽を聴く風潮を憂えている.昨今、自ら楽器を弾き、歌うDIYに勝る楽しみ方はないとつくづく思う.DIYできない人の戯言である.
(3/14/2021) 菅原勲 小生、難しいことはサッパリ分かりませんが、若かりし頃は、例えば、五味康祐*の「西方の音」などを熟読して、高級な音響装置に憧れたものです.例えば、タンノイとかワーフデイルのスピーカーなど.しかし、一介の会社員が贖える価格ではなく、結局、身の丈に合った装置に落ち着きました.それに、どう足掻いても「生は缶詰に優る」からです.生より美味い缶詰はあるんでしょうか?
現在は、パソコンにイヤフォンを付けて聴いてる体たらくで、かなり堕落した音響環境です.共同住宅住まいでは、致し方ありませんが.と言うわけで、缶詰も乙なもんだと楽しんでいる次第です.
* (五味康祐) オーディオ・クラシック音楽評論でも著名で、「オーディオの神様」とも呼ばれ、『西方の音』『天の聲 西方の音』『オーディオ巡礼』『いい音 いい音楽』などの著書がある. (Wikipedia)
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